歴史的な政治経済の重要な要!三重県北エリアの特徴【桑名市・四日市市】

桑名市の特徴

桑名市は三重県の北部に位置している市です。人口は14万人ほど、市の面積は136.68平方キロメートルほどです。
三重県の各市と愛知県、岐阜県にも面しており、三重県では四日市市、いなべ市、三重郡朝日町、川越町、員弁郡東員町、桑名郡木曽岬町、愛知県では愛西市と弥富市、岐阜県では海津市に隣接しています。
2004年に桑名市と桑名郡長島町、多度町が合併してできた市です。
「桑名市」は「くわなし」と読みます。

地理的には伊勢湾に沿った堆積平野である伊勢平野と、木曽三川によってできた沖積平野である濃尾平野の境に位置しています。
桑名市は木曽川、長良川、揖斐川を総称する木曽三川の河口に位置しており、南東部は伊勢湾に面しています。
三重県の伊勢市にある伊勢神宮で、東の玄関口の役割を果たすように「一の鳥居」が設置されています。

また北西部には濃尾平野の西側に広がる「養老山地」があり、三重県と岐阜県の境目を形成しています。
養老山地の最高峰は標高908メートルの「笙ヶ岳」で、北部の主峰には標高859メートルの「養老山」、一番南の主峰には標高403メートルの「多度山」がそびえ立っています。

夏には雨が多く湿気が強くなり、冬には雨が少なく乾燥気味になるという太平洋側気候に当たる気候の特徴があります。
通常は温和な気候であることが多いのですが、夏になると日照時間も長く蒸し暑くなり、最高気温が38度を超えるなどということも日常的に起こります。
冬は前述のように乾燥して晴れる日が多くなるのですが、岐阜県と三重県、滋賀県の県境に立つ鈴鹿山脈を通って雪雲が流れてくることもあり、その際には大雪が降ることもあります。

桑名市に当たる地域は、もともと律令制によって国郡が制定されていた時には「伊勢国桑名郡」と言われていました。
平安時代に入ってからはその地理的特性もあって、京都やその周辺での生産物を尾張より東の方へ販売するために中継拠点としての役割を果たします。このような中継地の役割を果たしていた桑名市の地域は、商業面だけではなく、文化面においても京都の上方文化圏と東日本文化圏の接点として機能しました。

室町時代に入ると、桑名市の地域で栄えた商人たちによって支配勢力から自立する性質を持つ自由都市が形成されます。
こうして他の自由都市であった堺や博多、大湊などに並んで日本でも有数の港湾都市として発展し、商業や海運の中心地として発展することになりました。その頃の桑名市の地域を「十楽の津」と呼びます。

戦国時代になると、桑名市の地域では長島の浄土真宗派の願証寺を中心にして、一向宗の大きな拠点を築き上げます。そこでは一向宗門の人たちによる自治が行われており、1570年から1574年にかけては長島一向一揆が勃発しました。
しかし織田信長と対立し鎮圧されてからは自治領が崩壊しています。
その際に多度大社の本宮や真言宗の宝雲寺で70以上もの堂や塔、伽藍などが焼き尽くされ、1580年には織田信長の家臣により聖衆寺や飛鳥寺を含む多くの寺院が焼かれています。

江戸時代に入ると、その頃整備された五街道のひとつである東海道五十三次で、42番目の宿駅として桑名宿が栄えました。
また1784年には日本でも有数の穀倉地帯である伊勢平野と濃尾平野の間にある利点を生かして、お米の集積や米相場の商いなどが始まります。

このように桑名市の歴史を見ても地理的条件を生かして、商業や産業の拠点として発展を続けてきました。
桑名市の地場産業の中でも特に代表的なのは鋳物です。桑名では1300人以上の労働者が約34社の鋳物工場に勤めており、製品の出荷額は全国屈指の約394億円を誇っています。
特に「桑名鋳物」と呼ばれている伝統的な鋳物産業もあり、桑名鋳物で製造された梵鐘は海外でも注文が入ることもあるそうです。

他にもハマグリを使った料理にはバラエティがあり、ハマグリは古墳時代から鎌倉時代の頃にも親しまれていたことがわかっています。

四日市市の特徴

四日市市(よっかいちし)は三重県の北部に位置しており、県の北部では中心都市として機能しています。国からは施行時特例市と保健所政令市の指定を受けています。
隣接している自治体には桑名市や鈴鹿市、いなべ市、三重郡朝日町、川越町、菰野町、員弁郡東員町があり、滋賀県の甲賀市にも面しています。
人口は31万人ほどと三重県の県庁所在地である津市の人口を上回っており、市の面積は206.44平方キロメートルに及びます。

四日市市には中心の市街地が橋北地区や中部地区などの中心部にありますが、中心部はドーナツ化減少によって人口が減少しています。
また北部に当たる富田地区や富洲原地区、および南部の塩浜地区でも産業の衰えや自然災害、公害などの様々な影響が絡み合って人口が減少しています。
一方で、四日市のコンビナート企業の労働者や名古屋圏からの移住者によって、市街地の周辺地域や西部地域は逆に人口が増加しています。

四日市市の東は伊勢湾に面しており、朝明川や名前川、朝明新川、大鐘谷川、平津川、半谷川、山城谷川などをはじめとした多くの河川に恵まれています。
また西は岐阜県から三重県、滋賀県の県境沿いに位置する鈴鹿山系に面しています。

四日市市に当たる地域は古墳時代の頃から栄えており、この地域で土器窯などの出土品が発見されています。
平安時代の後期までは比較的集落も小規模だったのですが、鎌倉時代や室町時代にかけては各地でお寺が建立されており、その当時四日市市の地域が栄え始めたことが分かります。
平安時代には鈴鹿山脈を超えてやってきた近江や京都方面の商人が活発に商売を行うようになります。

安土桃山時代になると伊勢湾沿岸に栄えた港によって回船業が発達します。その時に4がつく日に市場が開かれていたため、土地名が「四日市」になったと言われています。
またこの頃に幕府の直轄領を指す天領として認められるようになりました。

江戸時代になると天領の四日市はさらに重要性を増し、東海道五十三次の主要宿場である「四日市宿」や本陣、宿駅も設置されるようになります。

しかし伊勢湾沿岸の港によって江戸時代まで続いた四日市の繁栄にも関わらず、江戸末期に起こった安政の大地震によって港が壊滅的なダメージを受けます。
幕末から明治初期にかけて港の再整備を行ったのは、回船問屋であった稲葉三右衛門で、私財を使って整備しました。

明治時代には現在の四日市市の前身とも言える「四日市町」が、1889年の町村制を施行して誕生します。
1897年の8月には四日市町が市制を施行して、現在のように四日市市が誕生しました。

昭和時代に入ってからは工業の色も濃くなって行き、1960年には日本で初めての石油化学コンビナートが稼働します。
しかしこの工業化によって四日市市は汚染に悩ませられ、日本の四大公害病として知られている四日市ぜんそくの被害が広がってしまいます。
この郊外に反対して住民による公害運動が広がり、1972年には公害訴訟で住民の公害運動側が勝訴しました。

四日市市の経済の特徴を見てみると、特に高度経済成長期の後から石油化学系の企業が進出して大規模な商工業都市に発展しています。
また商業の面ではイオンの発祥の地でもあるので、イオンモールやイオンタウンなどのお店が多く見られます。

まとめ

三重県の北エリアに位置する桑名市と四日市市は、どちらも歴史的に見て経済や政治の中心として活躍した地域であることが分かります。
皆さんもこの歴史深い両市に住んでいたら、長年積み重ねてきたパワーを感じ取れるでしょう。

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