大河ドラマで注目!日本資本主義の父【渋沢栄一】と名古屋のゆかり

近代日本を代表する実業家、渋沢栄一(しぶさわえいいち)。
大河ドラマでその生涯を描かれるなど話題を集める人物ですが、実は名古屋とゆかりの深い人物でもあるのです。
この記事では、渋沢栄一の人物像とともに、名古屋市内のゆかりあるスポットについて紹介していきます。

渋沢栄一ってどんな人?

まずは、渋沢栄一がどのような人物なのか、人生の年表とともにご紹介します。
また大河ドラマの主人公や新10,000円札の顔として選ばれた背景についても詳しく見ていきましょう。

渋沢栄一の年表

渋沢栄一は近代日本の経済を支えてきた重要人物で、「実業界の父」「日本資本主義の父」などと呼ばれています。
日本初の銀行設立をはじめ、様々な業種の会社設立に携わっていたことで知られる人物です。
また尊王攘夷の運動家や江戸幕府の幕臣としても活躍するなど、波乱万丈の人生を送ってきた人物でもあります。

渋沢栄一が誕生してから亡くなるまでの主な出来事をまとめた年表が以下です。(引用元のリンクからより詳細な年表を確認することができます。)

西暦(和暦)年齢出来事
1840年(天保11年)0歳武蔵国血洗島(ちあらいじま:現在の埼玉県深谷市)にて、豪農であった渋沢市郎右衛門(しぶさわいちろううえもん)の嫡男として誕生。
1863年(文久3年)23歳尊王攘夷の思想に目覚め、倒幕計画を企てる。しかし、尾高惇忠の弟・尾高長七郎(おだかちょうしちろう)から熱心な説得を受けて頓挫する。その後、渋沢成一郎と共に京都へ出奔する。
1864年(文久4年/元治元年)24歳平岡円四郎からの推挙により、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)のちの徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の家臣となる。
1866年(慶応2年)26歳徳川慶喜が征夷大将軍となり、渋沢栄一は幕臣となる。
1867年(慶応3年)27歳パリ万国博覧会へ出席する徳川慶喜の異母弟・徳川昭武(とくがわあきたけ)に随行し、フランスへ出立。
1868年(慶応4年/明治元年)28歳江戸幕府が倒れ、徳川慶喜が謹慎する静岡藩に留まって出仕する。
1869年(明治2年)29歳静岡藩に日本初の株式会社となる「商法会所」を設立。
1873年(明治6年)33歳大蔵省を退官する。第一国立銀行(のちの第一銀行)を開業、総監役を務める。
1909年(明治42年)69歳実業界引退を表明。第一銀行、及び「東京貯蓄銀行」(第一銀行系の貯蓄銀行)を除く、61の会社役員を辞任。
1931年(昭和6年)91歳11月11日永眠。
引用元:https://www.touken-world.jp/shibusawaeiichi/

2024年発行の新10,000円札の顔に抜擢

渋沢栄一と言えば、2024年から発行開始となる新10,000円札の顔に選ばれたことでも話題となりました。
通常、紙幣の顔となる人物は、以下のような理由から選定されます。

  • 日本国民が世界に誇れる人物で、教科書に載っているなど、一般によく知られていること。
  • 偽造防止の目的から、なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること。

日本経済の近代化における最大の功労者と言われる渋沢栄一が選ばれるのも納得ですね。
また、同時に刷新される新5,000円札には「津田梅子」、新1,000円札には「北里柴三郎」が選ばれました。

2021年大河ドラマ「青天を衝け」の主人公に

渋沢栄一は、2021年度の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として、その生涯が描かれています。
「青天を衝け」のチーフプロデューサーである菓子浩さんは、農民・尊王攘夷の武士・幕臣・政界人・実業家といった多彩な顔を持つ渋沢栄一のおもしろさに惹かれたことが最終的な選定の理由であると語っています。(参照:https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202102140000218.html

渋沢栄一は電気やガス・鉄道・病院といった多くの企業に関わっている人物ですが、詳しい人物像や功績などは、実はあまり知られていません。
「青天を衝け」は史実に則って作られたストーリーとなっているので、渋沢栄一について詳しく知りたいという方はドラマもチェックしてみると良いでしょう。

渋沢栄一と名古屋のゆかり

続いて、渋沢栄一と関わりのある名古屋の企業・人物について紹介していきます。

渋沢栄一が関わっている事業

渋沢栄一は約500の企業・約600の社会公共事業に関わったとされており、名古屋市内にも縁のある企業が複数存在します。
渋沢栄一が関与したとされている名古屋市内の企業・事業は以下の通りです。

事業名ゆかりの場所
名古屋銀行集会所
金城鉄道株式会社 【不成立】
名古屋瓦斯株式会社南大津町
名古屋電力株式会社
東海倉庫株式会社
覚王山日暹寺(名古屋市)千種区田代町
名古屋商業学校 付.商友会
実業之世界読者大会:県会議事堂
三重紡績株式会社営業所:名古屋/分工場:尾張
引用元:https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/yukarinochi/23.html

名古屋大学(旧:名古屋帝国大学)の初代総長との関係

名古屋市内にある名古屋大学(旧:名古屋帝国大学)の初代総長だった渋沢元治(しぶさわもとじ)は、渋沢栄一の甥にあたる人物です。
渋沢元治は渋沢栄一の多大な援助を受けながら学問の道に進み、学者として大きな功績を残しました。
1929年(昭和4年)には、電気工学者にとって最高の栄誉と言われる「アメリカ電気学会名誉会員」に選出されています。

松坂屋の初代社長、15代伊藤次郎左衛門祐民との関係

名古屋市の覚王山エリアには、大正から昭和初期にかけて建設された「揚輝荘(ようきそう)」(松坂屋の初代社長 15代伊藤次郎左衛門祐民の別荘)が現存しています。
名古屋の近代における郊外別荘の代表作として知られており、約1万坪に及ぶ広大な敷地と自然の地形を生かして造られた建物が特徴的です。

この別荘の持ち主であった伊藤次郎左衛門祐民(いとうじろざえもんすけたみ)もまた、経営者・財界人として名古屋の経済発展に広く貢献した人物です。
揚輝荘には皇族・政治家・実業家・文化人などが日々来荘し、その中にあの渋沢栄一もいたと言われています。

渡米実業団記念会の開催地

渋沢栄一は1909年(明治42年)に北米太平洋沿岸聯合商業会議所の招待を受け、渡米実業団の団長として渡米を行いました。
その後、関東大震災によって中断されるまで続いた「渡米実業団記念会」の第1回会場となったのが、名古屋市内の鶴舞公園であると記録されています。

まとめ

大河ドラマでその生涯を描かれたり、新10,000円札の顔に選ばれたりと、一躍有名となった渋沢栄一。
名古屋市内には渋沢栄一とゆかりのあるスポットがいくつも存在するので、より詳しい人物像を知りたいという方はぜひ訪れてみてくださいね。

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