リオ五輪
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競技生活で一番印象に残っている事柄は? |
やはりリオ五輪です。会社の人たちも現地に駆け付けたり、パブリックビューイングに集まったりして応援してくれました。あとから動画で見ましたが、勝利の瞬間に歓声があがりみんなが一斉に盛り上がる様子は、すごく自分の中に残っています。
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2016年8月のリオ五輪はどんな気持ちで迎えましたか? |
「絶対に金メダルを獲る」その一心です。ずっと目指していた舞台に初出場できるので、純粋に楽しみでもありました。
事前に(吉田)沙保里さんから「“オリンピックには魔物がいる”ってよく言うけど、そんなことはない。会場の広さもメンバーも世界選手権と変わらない。自分で勝手に怖いイメージを作り上げちゃダメなんだよ」とアドバイスをもらいました。
確かに考えてみればその通りで、出場選手数も16人と世界選手権の半分ほど。いつもと同じだと思うようにしていたので、会場に入った時も「これがオリンピックかぁ~」と感じた程度で、予想よりずっとシンプルでした。
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決勝に臨んだ時の心境は? |
すごく楽しかったし、試合中も「いま日本のTVでも流れてるのかな」とか考えたりしていました(笑)。
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あの逆転劇、勝因は何だと思いますか? |
やっぱり「最後まで諦めない」という気持ちです。でも試合の最終局面、5分25秒くらいから記憶がないんです。無我夢中の状態であの技が出せたのは、日々の練習の積み重ね。それだけやってきたからこそ得られた勝利だと思います。
故障と手術
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リオ五輪前から左足親指の付け根(母趾球)が慢性的に痛むようになり、リオの翌年1月に手術。 それからの4年間はどんな期間でしたか? |
手術直後は「またすぐ復活してやる」と思っていましたが、全然良くならずに時間だけが過ぎて……「このまま終わっちゃうのかな」とも考えたし、人と比べてしまうことも増えました。その頃は競技を辞めたいという気持ちも強く、切れそうな糸でギリギリ繋がっていた感じでキツかったですね。
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どうやって乗り越えたのですか? |
やっぱり「人」。ずっと応援してくれている人や私に関わってくれる人、オリンピックで私を知ってくれた人もたくさんいたと思うし、そういう人たちに「もう一度勝って喜ぶ姿を見せたい」という気持ち……だけかなぁ。
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一番の支えは何でしたか? |
家族です。でもリオ五輪以降は、社会人になったということもあって、会社に恩返ししたいという気持ちも強かったです。結果が出なくても、近くで支えてくれた人たちに勝つ姿を見せたいという気持ちが柱になっていました。
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つらい時期から学んだことは何ですか? |
もしあのまま勝ち続けていたら、つらいときも応援してくれる人たちがいることに気付けなかったと思います。人の本当の温かさに触れて、感謝の気持ちを持てるようになったのはあの体験があったから。つらい時期がなければわからなかった部分だと思います。
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その間、金メダリストとしてのプレッシャーはありましたか? |
あまりないですね。もともと五輪代表選考も接戦でしたし、金メダルを獲ったからといって自分が頂点に立っているとは思いませんでした。
でも勝てない時期に「金メダリスト」と言われるのは、正直少し嫌でした。勝者との間にどれだけ実力差があるかは、自分が一番よくわかっていますから。
東京五輪選考と天皇杯
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東京五輪を目指そうと思ったのはいつ頃ですか? |
リオ五輪前までは「これで競技を辞めてもいい」と思っていました。小さいときから、早く結婚して家庭をつくりたいという憧れがあったんです。
だからリオが最後のつもりで挑みましたが、実際に出場してみるとやっぱりオリンピックってすごく特別な場所。あの一瞬の喜びは、生きてきた中で一番幸せな瞬間だったから、翌日には「東京五輪に向けて練習を始めたい!」と考えていました。
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ご自身にとって、東京五輪はどのような存在でしたか? |
すごく行きたかったけれど、憎さを感じることもあった場所……ですね(笑)。もし会場が東京じゃなかったら、日本でもここまで盛り上がることはなかったかもしれません。苦しいときは「なんで東京なんだ」と恨んだこともありました。でもまぁ東京五輪という目標がなければとっくに辞めていたかも。そのおかげで続けてきた4年間なので、結果として良かったと思います。
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2018年12月の天皇杯はどんな調子でしたか? |
1週間前くらいから激しい腹痛が始まり、盲腸かもしれないと思い検査したところ、腸管気腫と診断されて緊急入院。3日間絶食&安静。点滴だけで過ごしていたのですが、試合前夜に出場を決めました。お医者さんからは止められたけれど「無理はしない」と約束して一時退院の許可をもらい、会場に向かいました。
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天皇杯を終えたときはどんな気持ちでしたか? |
病状が悪化せず何もなくて良かった……正直、純粋にほっとしました。もちろん勝ちたかったけれど、こんな状態でも(入江)ゆきさんとの準決勝を4-4で戦えたことが好感触でもありました。
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東京五輪の代表選考を兼ねた2019年6月の明治杯はどんな調子でしたか? |
合宿でもライバルにやられっぱなしでしたから、正直内心「きついかな」とも思っていました。母趾球は相変わらず痛かったし、身体が勝手にタックルを止めちゃうし、反応も遅れるし……調子はそんなに良くなかったです。
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明治杯2位となり、世界選手権の出場権が消えたときはどんな気持ちでしたか? |
「終わった」という感じです。でもたぶん自分のどこかに「難しいだろうな」という気持ちもあったのだろうと思います。
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6月の明治杯以降はどのような生活を? |
もともと試合に負けても落ち込むことが少ない性格なので、実家に帰ってゆっくりしたり、子どもたちとレスリングしたり、友達と遊んだり……。
過去には戻れないし、前を向いて「これからどうしようかな」という思いで過ごしていました。もう東京五輪に出られる可能性はゼロだと思っていたので、まったく期待はしていませんでした。
再び五輪への挑戦
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9月に開催された世界選手権の結果によって、再び五輪出場のチャンスが巡ってきたときは どんな気持ちでしたか? |
はじめは動揺して気持ちも追いつきませんでした。でも1時間も経たないうちに「もう一回目指そう。チャンスがあるなら、そこは絶対に自分が目指す場所だ」と、気持ちを切り替えました。
準々決勝が行われていたあの日、(入江)ゆきさんの試合は夜8時くらいに終わりました。私は翌日から両親を連れてハワイへ行く予定だったので、東京で中継を見ていたんです。でも試合終了後に急きょキャンセルして、旅行は両親だけで行ってもらうことにしました。
翌朝始発で愛知に帰り、すぐに練習を始めました。ハワイのジムでトレーニング……というプランも一瞬よぎったのですが、試合まで3ヵ月しかなかったので1日もムダにはできません。私が「死にもの狂いでもう一度頑張ります」と言うと、父は「死ぬ気でやれ」と送り出してくれました。母はすごくがっかりしていましたけど(笑)。
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それからはどんな生活になりましたか? |
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最後の国内対決となる12月の天皇杯に向け、どんな気持ちで練習していましたか? |
明治杯で負けた6月から9月の世界選手権までの間、人生で初めて“目標の無い時間”を過ごしたので、もう一度目標に向かって頑張れる人生がすごく幸せに感じられました。天皇杯は本当のラストチャンスだから、絶対に後悔のないよう練習しよう。そう思っていました。
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天皇杯は3位。五輪代表権は得られませんでしたが結果を振り返っていかがですか? |
手術してからは調子も良くて、母趾球の故障も少し好転していて、自信もないなりにあったけど……まぁでも……本当にいっぱいいっぱいでした。
試合内容で言えば、後悔がまったくないということはありません。もう少し強気で行けたらと思う部分もあるし、あのときこうしていればと考えてしまうことも……。
でもそれまでの自分自身の取り組みは納得できるものだったので、良かったと思っています。
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五輪出場の難しさについてどう感じていますか? |
自分が弱くて相手が強かった。それだけのことだと思います。
いつかは年下に負ける日が来るし、自分もそうやってここまで来ました。もう一度先輩の意地を見せたかったんですが、その時期が思ったよりも早かったというか……勝負の世界は厳しいけれど、一方でそこが魅力でもあります。
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これまで応援してくれた人に何を伝えたいですか? |
何よりも感謝の気持ちでいっぱいです。「もう一回勝つ姿を見せたかった、ごめんなさい」という気持ちもありますが、ずっと応援してくれた方々はたぶん謝ってほしくないだろうとも思うので、やはり「本当にありがとうございました」ですね。
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地元からも多くの応援団が来ていましたね。 |
2019年の6月の明治杯も12月の天皇杯も、友達や地元のちびっ子たちが50~70人くらいのバスツアーを組んで来てくれました。……もう一回、あの子たちのヒーローになりたかったな。
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これまでの経験は今後の人生にどう影響しそうですか? |
この先どうするかはまだ全然決めていません。練習を続けながら、いろいろなことに挑戦して新しい学びを得る時間も作りたいと思っています。他の世界でもきついことや苦しいことがあるでしょうが、心身共にレスリングで鍛えられた部分は大きな支えになっています。たくさんの人と出会えたし、良くも悪くも多くの経験ができたので、どんな世界に行っても強い気持ちで頑張りたい。これまで支えてくれた人たちに、また笑顔で会える人生にしたいと思います。
社会人選手として
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そもそも社会人選手になったきっかけは? |
既にリオ五輪出場が決まっていたので、卒業後も拠点(至学館大学)を変えずに練習できる道を選択しました。
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社会人選手としての難しさは? |
部活とは違って仕事としてレスリングをやっているので、結果がすべてだと思いますし、学生とは違った向き合い方でレスリングをしなきゃいけないという気持ちでした。
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会社の期待や応援はプレッシャーにはなりませんでしたか? |
私は基本的にどんな声もマイナスに捉えることはないので、それは全然ありません。応援はもちろん力になるし、逆に厳しい声も力にできるので、どちらもプラスです。まったく重荷にはなりませんでした。
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東新住建の社員として競技を続けてきた感想は? |
リオ五輪を別にすると、入社後は一度も全日本選手権で優勝していませんから、やっぱり会社のユニフォームで全日本(選手権)を獲りたかったという思いはあります。目指す結果は出せませんでしたが、この会社に入って良かったなと心から思いますし、本当に感謝しています。
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東新住建は、どんな会社? |
出勤しているわけではないのであまりわからないんですが(笑)、私から見ると、どんな時でも支えてくれて応援してくれる、とても温かい会社だと思います。
支えてくれた人々
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ここまで何をモチベーションにしてきましたか? |
「自分の喜び=人に喜んでもらうこと」なので、勝って喜んでもらいたいという気持ちが一番の動機になりました。
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これまでの競技生活で得た収穫は何ですか? |
レスリングを通してたくさんの人と出会ったので……人との出会いですかね。
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ご両親はどのようにレスリング人生を支えてくれましたか? |
これまで何百回も試合をしてきましたが、負けて怒られたことは一度しかありません。泣いて戻ったときにも、父はいつも第一声で「よく頑張った!」と迎え入れてくれました。おかげで失敗が怖くないし、練習も思いきり必死に頑張れたと思います。母にしてみれば何か言いたくなる場面もあったと思いますが、ずっと黙って見守ってくれていました。
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お父様との印象的なエピソードはありますか? |
小学6年生のとき、ずっと目標にしてきた全国チャンピオンがいました。その人は小学校卒業後にレスリングをやめる予定だったので、6年生のあいだに勝つのが目標でした。最初は歯が立ちませんでしたが、段々とレベルが近づき「次は勝てる!」と思えるところまできました。でもそこで私は慢心して、無意識に練習をサボってしまったようです。いざ試合になったらボコボコにやられて負けて、結局それが、その子との最後の試合になってしまいました。
試合が終わり、泣いて父のところに戻ったとき、いつもみたいになぐさめてくれるかと思ったら「正座しろ!」と怒鳴られ「頑張ってもいない奴が負けて泣くな!」と……すごく怖かった。あの父の言葉はずっと心に残っています。
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つらい時期が長く続き、話したくない事柄もあったと思いますが、 それにもかかわらず多くの取材を引き受けてきたのはなぜですか? |
マスコミさんたちのおかげで私のことを知って応援してくれる人が増えたと思いますし、メディアの力というのは本当に大きいと思っています。だから自分がどんな状態であっても、取材していただけるのであれば今の気持ちや現状を伝えたいと思いました。
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記者はじめメディアの方々はどんな存在ですか? |
いつも私の近くで取材してくれる人たちは心あるインタビュアーさんばかりでした。とてもやさしい人が多く取材以外でのお話も楽しかったし、仕事の枠を超えて人間として素敵な方々だと思っています。
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先輩の伊藤選手、後輩の土性選手はどんな存在ですか? |
高校時代からずっと一緒に頑張ってきたので、もはやいて当たり前。卒業後も「東新住建の3人」として濃い時間を過ごしてきました。練習のつらさもプレッシャーも、わかり合える特別な仲間です。
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競技以外で一番印象深いお仕事は? |
ん~、なんだろう……。強いて言えば、小学生や中学生とのトークショーや講演会ですね。たとえば500人いる会場で、私の話に何かを感じる子はごく少数かもしれません。でもたった一人でもいいから「自分も頑張ろう」って思ってくれるような、背中を押すきっかけになれたら良いなと思います。
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頑張るレスリングキッズに一言! |
レスリングを通してたくさんの人に出会って、色々な経験をしてほしい。そしてどんなに苦しくても、目標に向かって「いつかは自分が!」という強い気持ちを持って頑張ってほしいと思います。